2020


ーーーー5/5−−−− 棒倒しの思い出


 
テレビドラマで、大正時代の小学校の運動会が映った。その中に、騎馬戦や棒倒しなどの懐かしいシーンがあった。現代では、危険だからという理由で外されてしまうことも多いようであるが、私が小学生のころは、いずれも花形競技であった。特に棒倒しの興奮は、いまだに心に焼き付いている。

 棒倒しは、紅白のチームが、それぞれ守備と攻撃の軍に分かれる。守備軍は、立てた棒の周りに同心円状に並び、スクラムを組んで密集を作り、棒が倒れないように守る。守備軍の一部は、フリーに動いて、棒に近付こうとする敵を食い止めたりたり、密集によじ登ろうとする輩の邪魔をする。攻撃軍は、試合開始の合図とともに、一目散に敵陣へ走りより、密集の上によじ登って棒を掴み、引き倒すことに専念する。棒が倒れて見えなくなったら、その密集は陥落とされる。密集は紅白それぞれに同じ数だけあり、先に全ての密集が陥落するか、規定時間内により多くの密集が陥落したチームが負けとなる。とまあ、こんなルールだったと記憶している。

 守備の兵隊をかわして密集に到達し、よじ登ろうとする生徒。それを引きずり下ろそうとする生徒。足を引っ張るうちにトレパンが脱げてしまうなどのハプニングも生じ、観客の歓声と笑いを誘う。スクラムを組む生徒たちは、じっと耐えて相手の攻撃に身をさらす。恐怖と苦痛におびえるその表情には、子供ながら悲壮感が漂っていた。

 密集の上によじ登った輩の手が棒に届き、その手が増えると棒が傾き始める。棒が斜めになると、離れた場所でも手が届き易くなり、いっそう多くの輩が棒を掴んでぶら下がる。そうなると、あれよあれよという間に棒は倒れて見えなくなる。たいていの場合は、そういう流れである。

 ところが、時にはヒーローが現れる。機敏な動作で敵の防御をかわし、全速力で突進して密集の上に飛び乗り、スクラムを組む子の頭を踏んで棒に到達し、食い下がる敵兵を足で蹴飛ばして振り払い、棒をよじ登って先端に達し、力任せに棒を揺さぶるのである。そういう状態になっても、簡単には棒は傾かないので、ヒーローの晴れ姿はしばしの間注目の的となる。観客からはヤンヤの喝采を浴びる。そういう光景を見て、子供心に憧れたものであった。

 私はといえば、動作が機敏な方ではなく、闘争心も鈍い子供だったので、スクラムの内部の、誰からも見えない場所で、敵兵に頭や肩を踏まれて、じっと耐えていた。 





ーーー5/12−−− 石垣登り


 
ある登山家(登山ガイド)のブログをときどき見る。画像が綺麗で、記事の文章も好感が持て、気に入っているのだが、更新が滞りがちなのが惜しいところだ。それはともかく、先日の記事では、コロナ騒ぎで山に行けないので、自宅で事務仕事をする合間に、散歩に出た時のことが書いてあった。初めて立ち寄った公園の端に、石垣があったので、とりあえず登ってみたそうである。そして、石垣に打ち込まれた、おそらく30年は経っていると思われる、登山用のリングボルトを発見したと。その記事を読んで、自分の過去の出来事を思い出した。

 私は学生時代に山岳部に所属していたが、キャンパスにおける週二回の練習は、主にランニングや筋トレといった体力トレーニングだった。それに加えて、岩登りの練習をすることもあった。その場所が、石垣だった。大学の敷地の外れに、石垣があったのである。高さは6メートルほど、巾は30メートルくらいだったと記憶している。構内を歩いていくと、石垣の上に出る。立ち木にザイルを結んで石垣に垂らし懸垂下降で下まで降りる。下は車一台が通れる巾の一般道だった。降りた部員はザイルを体に結んで、上の部員に確保して貰いながら石垣を登る。傾斜と言い、石の出っ張り具合と言い、岩登りの練習にちょうど良かった。全く登れないほど難しくはなく、ノーザイルですいすい登れるほど簡単ではないのである。

 石垣には、「カンテ」とか「赤岩ルート」など、名称を与えられたルートがある。ルートには難易度の差があり、「新人の○○は、このあいだ赤岩ルートを登ったようだ」とか「○○はカンテのクライムダウンに成功したらしい」などと、部員同士の励みになったりする。また、登るだけでなく、横に移動するトラバースの練習もできた。そして懸垂下降。上端を固定したザイルに身をゆだねて岩場を下る技術だが、入部して最初にこれをやらされた時の緊張感は忘れられない。上級生になると、岩場で怪我人を下ろす訓練と称して、人を背負って懸垂下降をすることもあった。

 さて、リングボルトとは、岩に穴を穿って差し込み、頭を叩くと内部のクサビが利いて抜けなくなるボルトの一種だが、当時は単に「埋め込みボルト」と呼んでいた。これについても、思い出がある。

 埋め込みボルトは、ハーケンが打てないような岩場、あるいはハーケンより強度を要求されるシチュエーションで使われるもので、主に人工登攀で使われた。その訓練のために、校舎の壁や、校舎を結ぶ高架の通路の橋桁にボルトを打ち込み、アブミの架け替えで登る練習をした。垂直あるいはオーバーハングの岩壁を模擬体験したのである。落下したら命に関わるので、ザイルでの確保は特に慎重に行った。石垣登りとは違い、これは多数の一般学生などの衆人環視の中で行われたので、パフォーマンス的な要素があり、気分が高揚したのを覚えている。ある時、通りかかった教員が「こんなことをして、教務課から叱られるんじゃないか」などと口にしたのを聞いた。まあ、実際にそんなことは無かったが。




ーーー5/19−−− やりっ放し


 
マツタケ山のメンバーで、シイタケのコマ打ち作業を行なった。昨年の秋の終わりに、マツタケ山で切り倒したコナラなどの樹。この2月に長さ1メートルほどに玉切りして下界に下ろし、集会所の裏に立てかけて2ヶ月ほど乾わかした。それにドリルで穴を開けて、シイタケ菌が付いたコマ(市販品)を打ち込む作業。30本ほどの原木に、合計で数百個のコマを打った。今回作業を行った原木からシイタケが出るのは、来年以降となる。同様の作業を昨年もやったが、そちらの方はこの秋に収穫が期待される。

 コマ打ち作業は、集会所の裏で行なった。やり終わった後、ドリルで抜いた木屑が地面に散乱していた。それを掃除する必要があるかという話になった。放っておいても土に帰る物だから、掃除しなくても良いだろうという意見もあったが、ちょっと掃いて花壇の脇に寄せれば綺麗になるという意見もあった。結局、掃除賛成派が、集会所備え付けの箒を持ってきて掃いた。ほんの数分のことである。掃き終わったら、一同の口から、「綺麗になった。やはり掃除をして良かった」という声が出た。

 すると掃いた一人が、「やりっ放しは良くないでね」と言った。その言葉は、その男性の一家言のような響きを持っていた。私はそれを聞いて、襟を正される思いがした。

 私はどちらかと言えば、後片付けをまめにやるよりは、どんどん次の事に気が進んでしまう質である。工房で仕事をしていても、一つの作業が終ると、すぐに次の作業に移ってしまい、前の道具の片付けをしない。そうしてグチャグチャになって収集が付かなくなると、ようやく片づけを始めるといった具合。部材の切断作業で生じた木っ端も、作業のたびに始末したりせず、散らかしたまま。それが床に積もって足の踏み場が無くなると、やっと清掃を始めるのである。そんな自分の行状が、好ましくないと感じることもあったが、取り立てて直そうという気も起きなかった。創造的な仕事をする人は、だいたいそのような行動パターンだという認識があり、自分の不徳を正当化してきた節もある。

 この地に移り住んでから、次第に気が付いたのだが、農村の人たちは、やることが丁寧で、しかも整理整頓に気を配る。信州人は真面目、勤勉と言われるが、それも関係しているかも知れない。物事を丁寧に行なって、後片付けもきちんとやるというのが、一つの美意識のようにも感じられる。これは私の勝手な想像だが、農業というのは、何か一つ間違えば、そのシーズンを棒に振る結果となる。だから、物事に対して常に慎重で、ミスをしないように気を配る。そして、間違いを誘い込まないよう、身を律し、正しく振舞うことを心掛ける。やりっ放しなどは、不誠実な行為であり、そういう事を繰り返していると、生活にほころびが生じ、不幸が忍び込んで来る、という考え方もあるのかも知れない。

 行いを正しく保ち、謙遜を心掛けて暮らすというスタイルは、農家のみならず、どの人生にとっても模範となるものではあるまいか。そう考えると、やはり襟を正さねばならない。




ーーー5/26−−− 看板をリニューアル


 
工房の看板を作り替えた。これまで使ってきた看板は、開業当初に立てたものだが、長い年月の間に風雨に晒され、特に日光が当たる面は塗装がボロボロになって、文字が判読し難いほどになった。作り替えねばならないとは数年前から感じていたが、なかなか思い切れなく、ずるずるとみっともない姿のまま過ぎてきた。ここへきて、コロナ禍のために世の中がスローダウンしたこともあり、気持ちが変わって看板のリニューアルに取り掛かることになった。

 これまでの看板で見られた反省から、看板プレートを厚い板にし、スタンドも太い材を用いて頑丈な作りにすることにした。プレートには厚さ45ミリのブブンガの一枚板、スタンドには二寸×三寸の松の角材を採用した。プレートは、着色が剥げてボロボロになった反省から、着色をせず、文字とロゴマークのみ彫って白色ペイントを入れる計画。そのためには、地が濃い色の材を使う必要があり、在庫の中からブビンガが選ばれた。

 プレートに文字を彫り込むという初めての作業もなんなく終わり、白いペイントを入れ、はみ出した部分を取り去るために全面にサンダーをかけた。そして、全体に透明な屋外用塗料を塗った。屋外用とは言っても、透明塗料の対候性はどれくらい信頼できるのか分からない。まあ、簡単に取り外せる物だから、塗り直しのメンテナンスでしのげば良いだろう。塗り直しのやり易さの点でも、文字を彫りこみにしたメリットは有る。

 スタンドの製作も順調に運んだ。長さ2メートル近い材を組むというのは、ふだんの家具製作では滅多にない事なので、作業に新鮮さを感じた。部材が出来上がったところで、顔料入りの屋外用塗料を塗った。こちらは使用実績があり、そこそこ信頼できる塗料である。

 基礎は、ブロックを4つ置いて水平を取る。この作業は、過去に材木置き場や薪小屋を設置する際に行なったことがあるが、なかなかピシッと決まらない、嫌な作業である。相互の水平と、各々の水平を同時に整えなければならない。試行錯誤の繰り返しで、エンドレスの様相を呈するが、それも次第に収束して、ほぼ完全な平面になった。

 スタンドを組み立て、基礎の上に置き、屋根を乗せる。屋根はコンパネの下地にタキロンを張ってある。下地を入れないと、タキロンが風にあおられて、年月が経つと剥がれたりする。スタンドの脚をブロックに縛り付けた。番線で縛るか、マイカ線にするか迷ったが、とりあえずマイカ線で縛ることにした。最後に看板プレートを吊り下げて完成した。

 以前の看板と比べて、格段に立派なものとなった。また、以前は一段低い場所に立ててあったが、今回は工房建物の脇に立てたので、敷地の前の道路から見て、とても目立つ。働き盛りを過ぎた工房には勿体ないような看板である。

 数日経って、近くに住む知り合いが車で通りがかりに立ち寄った。「良い看板ができましたね。これで大竹さんの運がまた開けるでしょう」と言うので、「人生下り坂ですから、今さらこんな物を作っても仕方ないですよ」と返したら、「いやそんなことは無いですよ。看板は大切ですよ」と言ってくれた。先年まで都会で製造業の経営を担ってきた方なので、その言葉には実感が込められているようだった。